花鳥風月の科学(松岡 正剛)
このページについて
この文章は、プラットフォーム「Cosense」の一角をお借りして展開している、プロジェクト進行についての論考集「プロジェクト工学フォーラム」内の連載企画、「価値創造の思考武器」のコンテンツです。
価値とはなにか、価値を生み出すためには、いかなる思考が求められるか、ということを、本の紹介を通じて、解説しています。
今回の一冊:「花鳥風月の科学」
https://gyazo.com/2866d873b0774e0e51471f2a95f379f9
第十章 「月」より
考えてみれば、花鳥風月などそのへんのどこにでもある相手です。人間、一日生きていて花鳥風月のいずれにもまったくふれないでいることのほうがめずらしい。かれらはとくに目立った連中ではないのです。しかし、当のわれわれのほうに欠けているものなら、これあそれが何かといえないほど面倒でやっかいな代物ばかりです。その欠如を思索してみることこそ、まさしく哲学芸術芸能三千年の歴史の内実でした。それでも、自分一人ぶんの欠如の本体すら見つからないのが相場です。
この本のあらまし
本書がいかなる本なのかを説明するのは、存外、むつかしい。
ぱっと見たところは、「松岡正剛流の、日本文化論」に見える。
そうだとも言えるし、違うとも言える。
たしかに日本の言葉や歴史、文学芸能その他(についての言葉)を語っているが、その目的は、日本でなく、世界を語ることである。そして、本書は文化論ではない。文化とはなにか、を、語っていない。文化が生成される仕組みの内実を、ただここに具現化しただけである。だから、本書によって何か具体的な、日本文化の解説の仕方とか、編集工学のノウハウとか、そういうものを得る、というような効用はなさそうに見える。ただただ「かくありき」そして「かくある」ということが、並べられているだけに見える。
松岡は、本書において「花鳥風月」を「モチーフ」や「アイコン」ではなく「しくみ」と呼んでいる。そして、本書のなかで、本書のことを、「日本のなかになかに流れてきた重要なコンセプトの生成、変遷過程を、花鳥風月等の10のキーワードで繋いでみた」というふうに語っている。
本書の最大の特徴は「必ず順番に読んでください」という但し書きが、まえがきにあたる部分と、あとがきの、両方で念押しされていることである。それは、松岡の意図した「つながり」は、順番に読まないと、それが明確な理解として浮かび上がってこないことへの、警告であるわけだが、どうぞ好き勝手な順番でお読みなさいと、挑発しているようにも見える。
第七章「仏」で重々帝網の概念を解説していることから察すると、実は、どちらでもよいのだ、ということは明らかだし、もしかしたら、そのことこそが、本書の最大の手柄なのかもしれない。
価値創造を企てる人間が、本書からメッセージを受け取るとしたら、まさに、そのことなのだ。
どこを入口にしても、出口にしても、構わない。
いや、そもそもこの世界には、入口も出口もない。
ただ、自分なりにそれを辿る道筋と、道順だけがある。
本書が示す世界像を図にしてみせるとしたら、それは例えば以下のようなものとなるだろう。本書が語るのは、松岡が重要だと考えるこれらの言葉たちの、繋がり合いや、響き合いである。
https://gyazo.com/15aa5ba1e1a40226006317b439a63cc3
価値創造のために、この本から得たいこと
なにか新たな価値を生み出したい、と、考える時、「なにを、どこから、どう考えたらよいのか」という問題に直面する。やりたいことも、やるべきことも、やらざるを得ないことも、いくらでもある。状況は、くんずほぐれつしている。しかし、いま・ここで動かせる腕は2本しかないし、言葉を発する口はひとつしかない。瞬間、瞬間に発することができる文字数は、一文字ずつしかない。
そもそも、人間の脳味噌の中に詰まっているのは、無時間的な意味ネットワークの存在様態そのものである。それを他者に対して表現するときは、ひとすじの時系列という、極めて不自由な、細い細い道を辿らないといけない。順番にならべる、ということは、そういうことである。
誰しも、何か新たな価値を生み出したい(とびきり美味しいカレーを作りたい、とか、自分のホームページを作りたい、とか、新しい事業を生み出したい、とか)ときに、茫洋とした戸惑いに直面したことがあるだろう。作りたいものはある。しかし、いざ始めてみようとしたら、どこから始めたらいいか、わからない。
それは、部分と全体、始まりと終わりが見通せないことによる。
価値創造を構想するとき、その主体者は、自身の脳のなかに蓄積された意味と情報(の豊かさ、または貧しさ)を問われる。脳のなかには、その人が見聞きしたことによって、その人から見た世界が転写されている。
繰り返すが、それは無時間的な意味ネットワークである。すべての情報は、脳の中に、同時存在している。
価値創造を行うことは、脳の中にある無限の記憶と情報に、自由自在にアクセスし、適切な形で並べ直しをすることと同義である。
松岡正剛という人は、まさに、脳に蔵された記憶に自由自在にアクセスし、またそれを、人が面白がることのできる形にアレンジして見せる能力の、極北に位置した人だった。
しかしそれは、松岡の言語的才能の専売特許にしてはならないし、神棚に祭り上げてしまっていいものでもない。
あらゆる人間に、同じ潜在能力は蔵されている。ただし、それを開発するのは、容易ではない。
松岡自身がそのことをもっとも切実に感じていたはずである。だからこそ、本書は書かれたのだし、だからこそ、本書は「編集工学流の思考術」や「編集工学思考術の習得方法」といった体裁を取らなかった。
本書における松岡の最大の問題意識は「どうしてこんなに、景気が悪いのか」ということであった。
では、景気とはなにか。私流に言わせてもらうなら、一人ひとりの人間が、日々、価値創造を楽しんでいる、ということである。
本書で、その具体的なノウハウは語られてはいない。なぜかというと、価値創造には、具体性の高いノウハウは不要だからだ。不要どころか、有害ですらある。ああすればいい、こうすれば成功する、という言説には一切の価値はない。必要なのは、自分たちが生きている思考基盤の来歴を知るということである。遠回りに見えるかもしれないが、そうして己の曇った眼を磨き直さなければ、価値もなにも、あったものでもないのだ。
脳内世界を豊かにする。
その世界の辿り方を、確かなものにする。
価値創造が成就するか否か、それは、この二つにかかっている。
本書の「グッとくるフレーズ」紹介!
●私は、本書のなかで、リンゴのイメージの起源と分散を追いかけるような気持で、日本の花鳥風月のイメージの変遷を問題にしたいと考えています。
●本書では、日本文化を形成してきたイメージがあまり多くはないコンセプトやキーワードの組み合わせによって徹底的に情報編集されてきたことをあきらかにしてみたい。
●山水画というものは、ズバリいうなら、「ここ」(here)にいながら「かなた」(there)の山々を眺めるための絵画様式でした。
●なぜ「情報の道」が必要だったのでしょうか。遺伝情報だけでは環境に適応できなかったからです。
●自然界には光と物質の二つだけではなく、光とも物質とも、またエネルギーとも時間ともつかないものがある。それが「情報」というものです。
●光と物質と、そして情報とが自然の本質的な三つの形態だったはずなのです。
●おそらく「神という情報」をさがすということと「意識の集中」をさがすということとは、似ていることなのです。
●風は呼吸です。呼吸は風です。その風と呼吸によってわれわれの言葉というものが出入りする。それなら、言葉も風なのです。
●日本のデザインでは鳥居の形がいかにも独特です。私は鳥居の形が大好きで、緑の山の麓に鳥居が見えたりするととても懐かしい。
●そうなのです、世阿弥は日本の文化がつくりあげた感覚のぎりぎりのところへ到達しようとしていたのです。世阿弥の晩年は足利将軍の寵愛から突き放され、佐渡に流され、理念の舞台化の仕上げには挫折するのですが、それだけに世阿弥がめざした理念はすごいものでした。そしてこの理念をどのように継承し、また変革していくかとうことが、その後の「花鳥風月に遊ぶ」というコンセプトの決めてになったわけです。世阿弥はうけつがれたのです。まず、心敬が、また二条良基や一条兼良が、ついで一休と金春禅竹と宗祇が、そして村田珠光と武野紹鴎と千利休が、これらを継ぎ、これを発展させようとします。この流れは、結局は江戸の芭蕉や良寛にまでつながっていくものです。では、このような「花」の境地は世阿弥の独創なのでしょうか。むろん独創の要素も多々ありますが、世阿弥の前にこのような流れを準備した歌人がいたのです。それはおそらく西行です。
●空海は天平時代に形式的に登場してきた華厳国家主義ともいうべき考え方を、ここで二重に批判したのです。
●ウツロヒはウツという言葉から派生した言葉です。ウツは「空」とも「虚」とも、またときには「全」とも綴りますが、ようするにまったくのからっぽの状態ということです。中空があいている状態、それがウツです。
●私は、日本の時間の源流が「ほか」に属していたのではないかと見ているのです。
●これこそが、やがては長次郎や利休の茶碗にまでつながっていく「負の時空のインターフェース」としての容器、すなわち「ウツワ」でした。
●それでは、私が考えている「夢の花鳥風月」とでもいうべきイメージの核心を話してみたいとおもいます。それは一首の歌から始まります。
●桃太郎の桃、一寸法師のお椀、花さか爺の枯れ木、浦島太郎の玉手箱などは、いずれも内側がウツロの「負の時空」なのです。そして日本人は、その「負の時空」から花鳥風月のうつろう動向と栄枯盛衰のうつろう動向とを紡ぎ出したのです。紡ぎ出したばかりではない。みずから紡がれ出ていこうとした者もいました。それが数奇の心を飛び抜けて世を捨て旅に出た遁世の漂白者たちの姿です。
●かなりはやくに「冬の月」に関心を示した人物は、フィクションのなかではありますが、光源氏です。
●われわれはつねに「片方」を失った存在です。しかし、何の片方を失ったのか、それがよくわからない。
終わりに
本書は、脳内世界を豊かにするための情報に満ちており、かつ、その辿り方を示唆する、しかも深く味わえば日本文化の理解が深まる、という、まさに一粒で三度美味しい一冊である。
生きていくためには、一冊の本だけを、読めば事足りるものである。しかし、そのたったひとつの一冊と出会うためには、万巻を読みこなしていく必要がある。
では、何から読むべきなのか。
なんでもいい、なんとなく、ふと手に取った一冊から始めたら良い。
松岡正剛「花鳥風月の科学」は、そういうことを教えてくれる本でもある。
この文章の著者について
(おまけ)
以下の映像で、「アニメーション制作とはパーツ同士を別々に作り、組み合わせ、組み立てる。その過程で、想定していたものから大きく変化していく」といった話が、神道における「中心を持たないネットワークである」という世界観と関連付けて語られている。松岡正剛氏と押井守監督は、互いに惹かれ合い、同じテーマもともにした間柄でもあって、ゆえにこそ、こうした重なりがあることには、実に必然性がある。
https://youtu.be/hJeH-4eUAxs?si=mMHaLy9fo0DoAPaA&t=1895